「椿の堕ちる日 第二幕 ― 縛愛 ― 行長編」
発売記念ショートストーリー

(ずいぶん寒くなったな――)


 かすかに軋む床を歩きながら、男――行長はそんなことを考える。
 季節はすでに冬。
 窓の外にはちらちらと雪が舞い散っていた。

(……冬、か)


 かつてハクライサーカスという場所で踊り子をしていた行長が明星座にうつってきてから数回目の冬だ。

(ハクライサーカスに居た頃は、こんな未来が来るなんて予想していなかったな)


 吐息とともに思い出すのは数年前のこと。
 最初は、ハクライサーカスから突然に明星座にうつった餓蛇を呼び戻すために明星座に訪れていた。
 なのに今では木乃伊(ミイラ)取りが木乃伊になるように、行長自身も明星座の一員になってしまっている。
 その選択で良かったのかと迷うことは何度もあった。
 けれど、今は正しかったと信じられる。
 なぜなら――――

「――行長さん、台所に居るなんて珍しいですね。何しているんですか?」

「!」


 背後から柔らかい声をかけられ、行長は肩を揺らした。
 とはいえ、行長の感情は滅多に表に出ないので無表情のままだ。
 ふりむくと、行長よりすこし年下の青年が勝手口のあたりに立っている。
 明星座の手品師、狐毒だった。

「狐毒くん」


 呼びかけると、狐毒がちょっと困ったように眉を下げた。

「さっきから何度も呼びかけたんですよ? だけど、何か考えて居らっしゃるようだから」

「何度も、かい?……ごめんね、気付かなかった」

「そうみたいですね」


 淡々とした声で素直に謝ると、狐毒が「仕方ないですね」と言いたげに小さく苦笑する。
 あまり変わることのない行長の表情のなかから、ちゃんと謝罪の心を見つけてくれたようだった。
 この狐毒という青年は人の心を機敏に察するから。
「それで?」と、狐毒が行長に促す。

「さっきから何を真剣に考えていたんですか? それと、台所にどんな用が?」

「ああ、それは……」


 狐毒に言われて行長は自分の手元を見る。
 実は、と、平坦な口調で語り始めた。

「最近、夜はずいぶん冷えるようになったから温かいものでも作ろうかと思ったんだ。できれば栄養があって、なおかつ食べやすいようなものを」

「温かくて栄養があって食べやすいもの……? それが食べたくなったんですか?」

「ああ、ちがうよ、僕が食べるんじゃない」


 狐毒の問いかけに、行長は首を横に振る。
 ならば一体誰のために、と怪訝な顔をした狐毒のまえで、ゆっくりとささやいた。


「これは――――あの子の、ために」



(そう、あの子のためだ)


“彼女”を想って、行長はそっと目を細める。

 冬のはじまりに夕蛾が明星座に連れてきた“彼女”。
 彼女を見てすぐに夕蛾に頼み込んだのだ。
「自分に世話をさせてほしい」と。

(……明星座に来て、良かった)


 でなければ、彼女と出会えなかった。

「なんだか行長さん、最近変わりましたね」

「え?」


 急に言われた言葉に、行長は我に返る。
 見上げれば、狐毒が悪意のない顔でにこにこと笑っていた。

「変わった? 僕が?」

 問いかければ、「はい!」と、やはり笑顔で返される。

「以前は無表情だし感情の起伏に乏しいし、見た目が綺麗なこともあって本当にお人形みたいな人だなって思ってたんですよね」

「……言いたいこと言うね。まぁ、否定しないけど」

 若干呆れた目で言うが、狐毒が気にした風情はない。
「けど」と、変わらない笑顔で続けた。

「――最近は、行長さんが何だか人間らしくなってきた感じがします」


「……は?」


 きょとん、と目を丸くした行長の前で。
 狐毒が「たとえば」と指折り数え始める。

「それまで必要最低限のことしかしなかったのに、彼女の世話をするって決めた日には夜遅くまで念入りにお風呂場の掃除をしてましたよね?
あと他人、ましてや女の子になんか全く興味無かったはずなのに、餓蛇さんに女の子が喜ぶこととか嫌がることを聞くようになりましたし。
ときどき街に出ると彼女に似合いそうな着物をぼーっと見てたりしていますし、この間なんか行長さんと彼女の部屋から笑い声が――」


「――ま、待って! 狐毒くん、それ僕の話!?」


 つらつらと並べ立てられる内容に耐え切れなくて、行長が焦った声で狐毒の言葉をさえぎる。
 とたん、くもりのない笑顔で狐毒が行長の顔を指さした。

「あ、ほらほら、その赤くなって焦った顔。そんな表情を僕の前でするのも初めてですし」

「それは、その」

「以前は餓蛇さんと遊んでるときくらいでしたよね」

「いや、餓蛇くんとは昔なじみだし……」

「ましてや笑ってる行長さんとか想像できなかったんですけど、彼女から“行長さんは子供みたいに笑う”って聞いて驚いたんですよね」

「!」


「やっぱり、彼女が来てから行長さんって浮かれてますよね――――!」

「…………!!」


(なんてことだ――……!)


 顔には出さず、行長は心の中で絶叫する。

 まさか、そんな。

(……こんなふうに周りに気付かれていたなんて……!)


 恥ずかしくて穴を掘って埋まりたくなる。
 だけど、目の前の青年は行長の心境など気にしない。完全に無視だ。

「楽しそうですよねぇ。いいなぁ」

「…………」

「でも――」

「……なに?」


 不意に声の調子を落とした狐毒に、行長が視線を上げる。
 すると、なぜか狐毒が遠い目をしてどこかを見つめていた。

「きっと、行長さんの子供っぽいところは俺には見れないんでしょうね」

「……狐毒くん?」

「俺は、誰の特別にもなれないから」


 いいなぁ。
 再度、年齢にそぐわない幼さで狐毒がつぶやく。

「…………」


 そんな年下の青年の様子にただならぬものを感じて行長は眉を寄せた。
 声が、喉をつく。

「……キミにも、きっと見つかるよ」


「え?」


 狐毒が驚いた顔で行長を見る
 しまった、と後悔してももう遅い。

(こんなこと言うつもりなかったのに)


 行長には何の責任も取れない。
 行長にとって大切なのは、たしかに狐毒の言うとおり“あの子”だけだから。
 だけど、声にしてしまったものは仕方なくて。

「行長さん、どういう意味ですか」と尋ねてきた狐毒に、あきらめたような溜息をついて口を開いた。

「僕だって自分がこんな風に変わるなんて想像していなかった。
他人にも自分にもたいして興味無かったし、それでいいと思ってた。
それが正しいんだと思ってた。
だけど」


 だけど、と、行長はつぶやく。
 勇気を振り絞るように、息を大きく吸った。

「――――運命に、出会う日があるんだ」


「運命、ですか?」


 狐毒が怪しげに小首を傾げた。
 行長がうなずく。


「あのね、あの子に出会うと僕はいつも心を揺さぶられるんだ。
あの子に出会って僕は初めて綺麗だって気持ちを知った。
いつも、いつでも――……
……あの子だけが、僕の特別」



「行長さん――」

 熱をこめて語る行長の姿に、狐毒が目を見開く。
 行長の言葉は、止まらない。

 

「見守っているだけで満足で、
誰よりも幸せになってほしくて、
一緒にいられるとやっぱりもっと嬉しくて。

あの子のためなら僕は何だってする。
あの子が笑ってくれるなら、それだけでいい。
命なんて惜しくはないんだ」


(そう、少しも惜しくなんかない)


 心に決めて、行長は拳を握りしめる。
 何度となく誓ったのだ。

 どうして、と、細い声が耳をついた。
 振り向けば、心底不思議そうな顔で狐毒が行長を見ている。

「どうしてそこまで思えるんです? つい最近、出会ったばかりの彼女のことを」

「…………」


 つい最近、という言葉に行長は唇を歪ませる。
「行長さん?」と問いを重ねた狐毒に笑顔を向けた。
 ――――ひどく、あでやかな笑みを。


「それは、秘密」



「!」

 美しい行長の笑み。
 そこに含まれた迫力に圧倒され、狐毒が息をのむ。

 硬直した狐毒に背を向け「じゃあ、ちょっと台所借りるから」と調理に入った。

(これは僕のあの子だけの秘密。誰にも言わない、教えない)


(僕たちだけの、秘密だ)


 それはある意味、当然のことだ。

(だって、僕たちだけが繋がっている絆があるんだから――――)




 赤い赤い、二人の絆。

 そのかたちは、椿に似ている――……。


~FIN~