「椿の堕ちる日 第三幕 ― 執恋 ― 狐毒編」
発売記念ショートストーリー

 カサカサと落ち葉が風に吹かれて音を立てる。
 平屋の集まる街並みを夕日が照らす。
 どこかから焚火の匂いがただよって来ていた。


「――餓蛇さん、今日は買い物に付き合ってくださってありがとうございました」


 砂利道を歩きながら、狐毒はとなりの男に笑顔で礼を言う。
 言われた男、餓蛇は快活に返した。

「なに言ってんだ、気にしなくていいぜ。お前からの頼み事なんて初めてで嬉しかったしな」

「……ふふ、餓蛇さんは本当に面倒見が良くて優しいですね」

「まぁな。任せろよ! でなきゃ行長と長年一緒になんていられないだろう?」

「なるほど、それもそうかもしれません」

「そこで認めるか⁉ はははっ、まったくお前って面白いやつだぜ」


 二人分の笑い声と足音がひびく。
 手品師の狐毒と猛獣使いの餓蛇。
 ふたりは現在、明星座という奇術団で一緒に働く同僚だ。
 誰にでも穏やかな物腰の狐毒と、距離感を縮めるのが上手な餓蛇。
 時には餓蛇の昔なじみである行長も混じえて、つるむ機会は多い。

「それにしても」と餓蛇が好奇心もあらわに狐毒の手にある包みを見た。

「花を買いたいから一緒に見に行ってほしいって言われたときには驚いたぜ。珍しいよな。手品用か?」


 餓蛇が指摘した通り、狐毒が手にしているのは一輪の花だ。
 冬の季節には珍しい、かわいい紫色の桔梗。
 狐毒が餓蛇に付き合ってほしいと頼み込んだのは花屋だったのだ。
 
 餓蛇の質問に、狐毒は「ああ、いえ、違いますよ」とやんわり否定した。
 そして、ささやくように言う。


これは“彼女”にあげるために買ったんです――、と。


“彼女”と聞いて、餓蛇が目を丸くした。

「それってつまり、夕蛾さんが拾ってきたお嬢ちゃんのことだよな?」


 彼女の世話はほとんど狐毒に任されているため、餓蛇は滅多に会うことがないが、顔くらいは知っている。
 餓蛇に問われて狐毒が嬉しそうに「ええ」と頷いた。

「俺は女性が好むものや、それを売っている場所なんかを全く知らなかったので、今回は本当に助かりました」

「なるほど。それで俺を選んだわけか」

「はい。餓蛇さんは女性の扱いが上手いと、いつも自称してますし」


 にこにこと、狐毒が笑顔で言う。
「自称っていうか、事実なんだよ」と餓蛇が唇を尖らせた。

「ああ、そうでしたね、済みません」

「お前……まったく反省してるように見えないな」


 あきれた口調でぶぅぶぅと餓蛇が文句を言う。
 が、狐毒は気にせず、手にした花に目をやった。

(……気に入ってくれるといいな)


 思い浮かべるのは、餓蛇にも言った通り明星座で待っているはずの“彼女”だ。

(どんなふうに渡せばいいかな?)


 餓蛇の文句を聞き流しながら狐毒は考える。

(素直に“キミに似合うと思って”?)

(それとも“たまたま見かけたから”なんて言って、さりげなく渡そうかな。……いや、これじゃ小蝉みたいか)

(あるいは、いっそ“好きですよ”とか――?)


 そうしたら、彼女はどんな反応をするだろう。

(ちょっとくらい俺を意識してくれるかな。赤くなってくれたりしたら嬉しいんだけど)


 考えただけで楽しくて、狐毒の口から笑いが漏れる。

 となりを歩いていた餓蛇が、完全に話を聞いていない様子の狐毒をじろりと睨み付けた。

「……狐毒、お前なんだか楽しそうだな」

「はい!」

「…………いやみだぜ?」

「そうですか、すみません。でも本当に楽しいので‼」


 にこにこ、にこにこと、晴れやかな笑顔を餓蛇に向ける。
 

「………………」


 餓蛇が、なんとも言えない表情で沈黙した。
 やがて、はあ……と大きな溜息をつく。

「餓蛇さん?」


 狐毒が声をかけると、餓蛇は疲れきった顔を向けた。

「いや、なんていうか……お嬢ちゃんのおかげか?」

「はい!」


 餓蛇の問いに、狐毒は素直に首肯する。
「素直だなぁ」と餓蛇に苦笑されるが、仕方がない。事実なのだから。

 だって、と狐毒は思う。


(――あの子が、俺の人生を変えてくれたんだ――)



 狐毒の胸の奥には、ある夜のことが深く刻みこまれている。

(あの子が俺を救ってくれた。俺を変えてくれた)


 あの日、あの夜、狐毒は生まれ変わることができた。
 そう思うほどの衝撃だった。

(こんな風に思い浮かべるだけで心が温かくなるなんて)


 嬉しさのあまり、狐毒はもう一度ふふっと笑う。

(……好きになってもらいたいな)


 彼女に、自分を好きになってもらいたい。
 願うだけでは足りなくて、狐毒は毎日必死なのだ。

(好きになって、くれるかな)


 淡い期待に胸が躍る。

(俺は、キミが好きですよ)


 何度でも何度でも、言わずにいられない。

(好きだ)


 繰り返すほどに想いは深くなって、こみあげてきて。

「――……幸せだなぁ」


 ぽつりと、言葉が口からこぼれた。
 生きることは苦痛でしかないと思っていたはずなのに、今は震えるほど幸せだ。
 孤独に押しつぶされて狂いそうになっていたころが嘘みたいに。

 狐毒のひとりごとに、餓蛇が驚いたように眉を上げた。
 だが、すぐに表情をゆるめて。

「……そっか。よかったな」と、ささやいた。

 餓蛇のまなざしには妙に慈愛が満ちている。

「……餓蛇さん、どうしたんですか? なにか言いたいことでもあるんですか?」


 不思議に思って聞けば、餓蛇が「いや」と苦笑した。

「なんていうか、お前は行長と似て、ちょっと危うい部分を感じてたからさ。心配してたんだよ」

「危うい、ですか?」

「そうだな。どこか遠くに行きそうな感じっていうか」

「…………」


 餓蛇に言われ、狐毒は沈黙する。
 でも、と、餓蛇が言葉を続けた。

「そんな風に幸せそうにしてるのを見て安心したぜ!」


「……それは、どうも」

 甘い顔立ちに爽やかな笑顔を浮かべられ、狐毒は何となく目をそらしてしまう。

(まさか餓蛇さんに心配されてたなんて知らなかった……)


 いい年をした男に心配なんて言葉、恥ずかしくないのだろうか。
 狐毒としては餓蛇のほうこそ心配になってしまうが、なぜか、いつものように素直に口に出すことはできなかった
“あの日”以来、こういうことは多い。

(むずがゆいような、嬉しいような、照れくさいような……)


 自分に、こんな感情があるなんて知らなかった。

(これもあの子のおかげなのかな)


 だとしたら、きっと良い変化なのだろうし、受け入れなくてはいけない変化だろう。

(だって、これからもずっと俺はあの子と一緒に過ごすんだから――……)


 ずっと一緒にいたい。
 そう強く願っているし、信じている。

彼女が明星座に居候する期間は春までという話だ。
けれど。

(春が来ても、夏になっても、秋がきてまた冬が来ても、ずっと明星座に居てくれればいいのに)


 だって狐毒はもう、彼女がいないと生きられない。

(あの子のいない人生なんて考えられない)


 想像しただけで寒気がする。
 暗くて冷たい闇が近づいてくるような気がする。

 もちろん、彼女にも何らかの事情はあるのだろう。

(だけど、どうか)


 祈らずにはいられない。

(……俺を、置いて行かないで)


 どこにも行かないでほしい。
 ずっとそばにいてほしい。
 ずっとそばにいたい。

(――――離れない)


 想いは願いになり、願いはやがて誓いになる。

(何があっても、俺はあの子から離れない。絶対に――……!)


 風が吹く。
 夕日が沈み、あたりが暗闇に包まれはじめる。

 分岐路に来たところで、餓蛇が「それじゃ俺、ちょっと向こうに用事があるからさ」と手をあげた。

「用事、ですか? そういえば餓蛇さんもお花を買っていましたよね。誰かに渡しにいくんですか?」


 言いながら、狐毒は餓蛇の手もとに視線を向ける。
 餓蛇がちいさく苦笑した。

「勘違いするなよ、家族にだぜ?」

「そうですか」


(そういえば餓蛇さんの家族の話って聞いたことがないな。……ご両親に? それとも――)


 考えているうちに、餓蛇は「じゃあな!」と手を振って行ってしまう。
 別れ際に、すこし悪戯めいた顔でささやかれた。

「お嬢ちゃん、喜んでくれるといいな。……がんばれよ」

「! は、はいっ」


(そうだ、餓蛇さんの事情に首を突っ込むべきじゃない。それよりも花の渡し方だ)


 彼女のことを言われ、狐毒の頭は一瞬で切り替わる。
 今の狐毒にとって彼女のこと以外は重要ではない。

(……手品で、渡そうかな。あの子が褒めてくれたから)


 手癖になっている指の運動をしながら、考える。

 彼女に恋をして以来、毎日が嬉しくて毎日が悩ましい。
 その悩みさえ、きらめきを伴うもので。


(――――ずっと、こんな日が続きますように)



 やわらかい笑みをたたえ、狐毒は誰にともなく祈る。
 

 餓蛇が持っていた花がちらりと脳裏をかすめた。
 ――白い、菊の花だった。



~FIN~